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コーチ今西正和(いまにしまさかず)
- プロフェッショナルコーチ
- NLPトレーナー
- キャリアデザイン学修士
株式会社ベネッセコーポレーションにて、商品開発、マーケティング、新規事業企画、経営企画等の業務に従事した後、2013年にコーチとして独立。
2017年法政大学大学院キャリアデザイン学研究科修了(キャリアデザイン学修士)、2018年より国立大学法人電気通信大学特任講師として、大学生のキャリア教育に関わっている。
「誰もがより良い人生を生きること、自分らしくあること」をモットーに、コーチとしてライフデザイン・コーチングを提供している。 -
聴き手後藤岳(ごとうたけし)
- 聴き書きブックス代表
- Hospitality & Coaching代表
- プロフェッショナルコーチ
- CTIジャパンコーストレーナー(国際コーチ連盟所属コーチ養成機関)
都内ホテルにてコンシェルジュとして従事し、丁寧できめ細やかなサービスを提供する。その後コーチングに出会い独立して「Hospitality & Coaching」を設立。(現在はコーチ養成機関であり国際コーチ連盟所属であるCTIジャパンにてトレーナーとしても活躍。)
その後2011年の東日本大震災をきっかけに人の人生の物語を聴いて書き起こし、本にする「聴き書きブックス」を設立。人生の転換期に、ご両親へのプレゼントとしてなど、これまで多くの方の人生の物語をカタチにしている。
ライフストーリー 目次
小学校時代
習い事
- 小学生の時のお稽古事で、そろばんをやっていたということですが、きっかけは?
- 父親とお風呂に入っていて、「九九を全部言えたらお風呂から上がれる」っていうところから計算が好きになって、そろばん塾に小学校3年生から通い始めました。
- そろばんの昇級試験で何回か不合格になったということですが、何があったのですか?
- 2級の試験を3回落ちて、小学校5年生の時、4回目で受かりました。その後、1級も受けたのですが、小学生の間には受からなくて、中学3年生までかかりましたかね。合計5回落ちて、6回目に1級に合格しました。
- へえ~。5回落ちるって、結構ショックな感じがするのですが、落ちたときはどんな心境になるのですか?
- すごいショックでしたね。掛け算とか割り算とかは通るのですが、見取り算や伝票が苦手でした。もう少しゆっくりやればいいのに、そこでよく失敗していました。
中学校になったら、そろばんをやっている男の子はいなくて、周りは全部、女の子でした。しかし、周りにどう思われるかというよりも、自分の中で「1級は合格したい!」と思って続けていました。 - やっぱり1級は取りたい。
- はい、やり始めたからには、1級は取りたいなあというのはありました。続けられた理由は、やはり、計算が好きだったのでしょうね。
- 計算というのは、何でしょうか、どの辺りに楽しさがありますか?
- 自分のリズムに合っていたのでしょうね。パパパッとやって、パッと、という(笑)
初恋
- もしよかったら、初恋の話を聞いてみたいのですが。
- 小学校2年生のときです。知子ちゃんという、元気で笑顔が可愛いい子でした。
- 今、今西さんの表情がガラッと変わりましたよ(笑)。
- クラスの名簿で知子ちゃんの家の住所を見て、ある土曜日の午後、知子ちゃんが住んでいるマンションまで親友を連れて遊びに行ったことを覚えています。友達と2人で行ったのですけれども、友達は「恥ずかしいから」と帰りました。しかし、私はどうしても会いたくて、「ピンポーン」と2回ぐらい鳴らしました。友達が帰ってからです。最初は、恥ずかしくて、思わず隠れてしまったのですが、2回目は勇気を出して、「こんにちは。知子ちゃんの同じクラスの今西です」って答えました。それで、お母さんが出てきて、家の中に入れてもらいました。知子ちゃんのお母さん、とても嬉しそうでした。そして、苺のショートケーキを食べさせていただいた記憶があります。だから、今も苺のショートケーキは大好きです(笑)
家族のこと、祖母のこと
- 生まれた時の家族構成は?
- 父と母で、母方の祖母の家に両親が同居をしているという形でした。父親は板前で、大阪の北新地で日本料理店を経営し、母も女将としていっしょに働いていました。だから、祖母が母親のような存在でした。
毎朝6時に起きて、ごはんを作ってくれたこと、すごく覚えています。そのおかげで、小学校の6年間、無遅刻無欠席でした。祖母は、ものすごく厳しくて、朝、起きないと怒られるし、夕方も、門限を守らないと怒られました。門限を守らなかったり嘘をついたりすると、蠅叩きで、バシバシ叩かれました。 - あはははは(笑)。
- 明治の人なので、ものすごく厳しいのです。「自分のことは自分でやりなさい!」「嘘はつかない!」など、しつけは、かなり厳しかったです。
97歳まで長生きしたのですが、5人の子どもと2人の孫を育てあげ、その後、まったく介護を受けませんでした。子どもたちの世話にはなりたくないと、最後は一人で、高齢者施設で暮らしていましたが、前日まで元気にしていて、朝起きたら、ポックリ逝っていました。ボケないように編み物をしたりとか、押絵を作ったりとか。叔母たちが世話をしようとしても「いいです、私がやります!」っていう感じで。「自分のことは絶対に自分でやる、他人の世話にならない」という、芯の強い明治生まれの女性でした。私は、祖母のことをすごく尊敬しています。 - 厳しくても尊敬しているのですね。どのあたりを一番リスペクトしていますか?
- いい加減な気持ちで人に頼ったり、怠けたりするのではなくて、自分のことは自分でやるという生き方です。
中学校時代
将来の夢
- 中学生の頃の将来の夢って何かありましたか?
- 野口英世という方の伝記を読んでお医者さんになりたいなと夢はありました。
- 医者のどんなところに魅かれたのですか?
- 困っている人を助けるというところです。患者さんを助けるというところに、すごく魅かれていました。私は、幼稚園のときに喘息持ちで、喘息で2か月ほど入院をしていました。その時、お医者さんにお世話になって、楽になったという経験があります。だから、お医者さんになりたいなっていう気持ちは抱いていました。
- なるほど。自分で経験もした。
- そうですね。辛いときにお医者さんにかかって、楽になったというのがあるので。
いじめられた体験
- それから、いじめられる経験もされたということですが、これについては伺っても大丈夫ですか?
- はい。大丈夫です。
- これはクラスの中の話ですか?
- はい。中学2年生の時です。私は、気まじめな面があったので、正論も言うのですね。それが一部のクラスメイトからすると「生意気だな、こいつ」というのと、体が小さいこともあって、それでいじめられたのだと思います。
- そうなのですね。それは結構続いたのですか?
- そうですね。半年ぐらいいじめられたでしょうか。教員室に呼ばれて、先生に「いじめられているのか?」と聞かれたときに、僕が「いじめられている僕にも、何か悪いところがあるから」って言ったらしいのですね。それ以来、いじめていた彼らが全然いじめなくなった、というのを記憶しています。
- へえ。それは面白いエピソードですね。
- 何か、スッとそういう言葉が降りてきたのですね。
- 自分の中でも、何かそう思えた。
- 生意気な何かがあったのでしょう。
母の死
- 中学校生活の中で印象に残っていることはありますか?
- 男子校で楽しかったのですが、中学校3年生のときに、母親が病気で亡くなったのですね。それが、中学校生活の中で一番印象に残る出来事でした。
- 何かその時の心境などは、覚えていますか?
- 信じられなかったという感じです。日常生活は祖母が全部見てくれていたので、変化はなかったのですが、母親が亡くなったというのは、心の中にぽっかりと穴が開いたような感じでした。何とも言えない、寂しさがありました。
- まだ15歳ですよね。親の存在って大きいと思うのですが、亡くなられたことでの心境の変化はあったのでしょうか。
- 母親が亡くなる半年前に「あなたは長男だからグレたりせずに、まっすぐに生きて行ってほしい」と言われました。だから、みんなが期待するいい学校に行っていい会社に入るという道をしっかりと歩いて行こうと努力しました。
- そうなのですね。おばあさまもそうでしたが、お母さまからもちゃんと生きなさいということを言われていたのですね。
- 私は母方の初孫だったので、ものすごくみんなから可愛がられて、期待の星だったみたいです。
- そういう期待をしてくれているなというところは、感じていたのですか?
- その時は、そんなに感じていませんでした。プレッシャーはなく、普通にやっていました。
高校時代
クラブ活動
- 高校時代はどんなことをやっていたのですか?
- 1年生の時、部活をやっていました。陸上部で中長距離走の選手でした。
- なぜ、陸上部に入ろうと思ったのですか?
- 体育の授業で、陸上部の中距離走の選手に勝ってしまったら、陸上部からスカウトが来ました。駅伝に出ないかと。それが入部のきっかけですね。そして、練習を積み重ねて出場した駅伝で、体が軽く、予想以上の力が出せ、駅伝で区間賞をもらった時は嬉しかったですね。風に乗ってスーッと走れるような、そういう感覚があった時は、すごく楽しかったですね。
高校・大学時代
将来の夢
- 高校・大学時代、将来の夢というのは、どのように考えていたのですか?
- 高校の時は、母親が病気で亡くなったということで、お医者さんになりたいなと思っていました。高校2年生の時は、医学部を目指して、予備校の現役生科に行って勉強していました。
しかし、国公立大学の医学部へ行くには、成績で厳しかったことと、恥ずかしいのですが注射が怖いので、やめました。血液検査で、血を抜く時、怖くて、これは医者にはなれないなと(笑)。
その後、大学1年の時に、学習塾でアルバイトをしていて、担当クラスの子供たちが、数学を好きになってくれたことから、数学の教員になりたいと思っていました。
そして、大学4年の時、教育実習で母校に行きました。そこには、5才違いの弟が高校2年生として通学していました。私が受け持ったのは高校1年だったのですが、高校2年の生徒たちがギャラリーとして、私の授業を見に来て、すごく盛り上っていました(笑) - へえ! それぐらい、似ていたのですね。
- はい。朝礼で、私が実習生代表で「実習生の今西です」と普通に挨拶をしたら、もう学校中が大爆笑になりました。
教育実習の後、教員採用試験を受けたのですが、落ちてしまいました。
大学時代
アルバイト、スキー
- 大学時代はどんなことをやっていたのですか?
- マクドナルドでアルバイトをしていました。大学2年から3年ぐらいやっていたと思います。
- アルバイトで得たお金は、どんなことに使っていたのですか?
- 冬にスキーに行っていました。スキーが好きで(笑)。冬休みには2週間とか、行っていました
- どういうきっかけでスキーを始めたのですか?
- 小学校1年生の時、家族で赤倉温泉へスキー旅行に行ったのです。直滑降でワーッと降りたときに、一度も転ばずに滑り降りたのが成功体験になりました。それで、”スキー“が”好き“になって。なんかダジャレになっていますけど(笑)。
- あははは(笑)。結構あれですね、成功体験をひとつ得ると、どんどんと入っていく。
- そうですね。はい。
- そんな感じがしますね。先ほどの話もそうですけれども。
- そうですね。八方尾根でスクールに入って。バッチテストで2級まで行きました。
- すごいですね。あれ、結構難しいですよね。
- そうでね。はい。
会社員時代
松下電送での仕事
入社3年目まで
- 社会人1年目というのは、どんな感じだったのでしょうか?
- 社会人1年目は、開発の仕事をしていました。
- どういう開発をされていたのですか?
- 電子ファイルという製品の開発です。私は、開発中の製品が仕様通りに動くかどうかという最終テストを担当しました。
- なるほど。
- 割と単純な動作確認作業を、自分でやったり、アルバイトを使ってやったりという形で。なかなか、ちゃんと動かないことが多く、トラブルが多くて、結構つらかったです。
- 社会人になると学生時代までの人との関わり方とか、出会う人も大きく変わるじゃないですか? その時の仕事の環境をどのように見られていたんですか?
- 私は、上司に恵まれていたと思います。上司は、外資系から来た、千葉真一に似たカッコイイ課長で、仕事もすごくできる人でした。出張に行くときは、「札幌出張を金曜日に入れ、週末はスキーに行く段取りをするように」と指示されたり、夜、飲みに行ったら、素敵な女性に声をかけて、営業のやり方の見本を見せてくださったりするという。(笑)
- へえ!
- 社会人2年目は、営業の仕事をしていました。担当した商品がなかなか売れなくて、売れると故障してクレームばっかりで、本当に社会人って辛いなあって思いましたね。ため息ばっかりついていました。
- クレームって、結構、精神的に来るじゃないですか?
- だからもう、つらかったですね。いつも「はぁぁぁぁっ」ってため息ついて(笑)。
もう、若年寄みたいな感じでした。 - じゃあ、社会の厳しさにいきなり直面しているような、そんな感じですね。
- そうですね。松下電送という大企業に入ったのに、これが現実かって思いましたね。そこで、私は、工学部電子工学科を卒業しているので、営業ではなく、技術面でも強い人間になろうと思って、ネットワークのことなどを猛勉強しました。ただ、売るだけではく、自分の知識とかスキルで目立とうと、すごく努力しました。
- 知識とかスキルを習得するということをやり始めたと。
システムインテグレーションセンターへの異動
- 入社3年目か4年目だったと思うのですが、社内の異動希望制度があり、その制度を利用して、自社の商品と他社の商品を組み合わせて、お客様に価値を提供する部署に異動させてもらいました。
- なぜ、それをやってみたいと思ったのですか?
- それはやっぱり、電子工学専攻の専門が生かせるというのと、カッコイイ先輩社員かいたことですね。
- カッコイイ?
- はい。その部署の先輩社員が、すごく技術力があって、その人に憧れていました。
- その先輩に憧れたポイントはどんな点ですか?
- 知識が豊富で、営業からも頼りにされていて、お客様の色々な質問に、その場ですぐに答えることができたり、新たな提案ができたりすることがすごい、と思っていました。
- ロールモデル的な人ですね。
- はい。だから、何とかOさんと同じような存在になろうと思って、日々努力していました。
20代での成功体験
- 20代の頃って、会社に入って、段々と自信もついてくるじゃないですか? その中で成功体験とか、やり遂げたというような、そういう経験はありますか?
- あるお客様がコンビニエンスストアにFAXを設置し、FAXを活用した情報サービス事業を手掛けました。そのプロジェクトに関わったことが成功体験ですね。
そのプロジェクトの技術リーダーはAさんでしたが、私は、Aさんが見落とすようなところを全部カバーする、もし、Aさんが抜けたら後は、私が引き受けるという気持ちで取り組んでいました。そのプロジェクトは、社内表彰の団体賞で金賞を受賞しました。 - コンビニエンスストアに設置するというのは、かなりの台数ボリュームですよね。
- はい。そして、特殊機を開発しました。さらに、FAXサービスの課金をするために、バーコードで読みとり、レシートが出てくるような機器を新規開発しました。
- それは、どんどんコンビニに設置されていくわけじゃないですか? 自分がコンビニに入った時に、そのFAXを見た時は、どういう気持ちになるのですか?
- ものすごく感激でした。当時はインターネットがなかったので、「コンビニエンスストアに行ったらおいしいお店の地図が出てくる」という情報サービスが完成すると、世の中を変えるなって。とても誇りに思える仕事でした。
- 世の中を変えることを、自分がやっている実感みたいなものを得ていたのですね。
- 「完成したときは・・・」ですね。ただ、それまでは、もう本当に、夜遅くまで仕事をやって、タクシーで深夜の2時、3時に帰っていたというような生活でした。
残業が100時間を超えることもありましたが、私は、一生に一度しかできない仕事だと思っていたので、全然苦ではなかったです。 - 自分で必死にやっている時ってそうですよね。時間も関係なく夢中になって。
- 夜中遅くに、Aさんと一緒に資料を作って。ワイワイガヤガヤ楽しくやっている感じでした。
- じゃあ、夜遅くまでやって結構大変な時期だけど、楽しい記憶というのですね。
- ですね。体は辛かったですけれどもね(笑)。
- 自分が作ったものが世の中に本当に求められ、認められる、認知されている、そういうことを実感できた。
- そうですね。だから今でも、自分がメーカーで働いていた「ものづくり」というところに、すごく思い入れがありますね。
- なるほど。あと、世の中に生み出すというか、貢献するというところにもやりがいというものがあったんじゃないかなと感じます。
- そうですね。当時はそんなことを意識していなかったですけれども、結果的に、歳を取ってからそれは思いますね。
- なかなかこれは、経験できないですね。
ベネッセコーポレーションでの仕事
- ベネッセコーポレーションへ転職した当初はいかがでしたか。
- はい。転職してから1年半ぐらいは営業の仕事をしていました。松下電送で開発の仕事をしていたということ、そして、理系であることを生かしたいということで、岡山の開発の仕事に行かせてもらいました。仕事内容は、新しいテストの開発で、仕事に打ち込んで面白く働かせてもらっていました。しかし、自分ではすごくいいテストを作ったという自負はあったのですが、周りの人とあまり良い関係が作れなくて、敵が多かったです。上司に正論を吐いたり、取引先に厳しいことや無茶を言ったりして、社内の評価があまり良くなかったです。
- そうなんですか。
- 自分では実績を出していると思っていたのですが・・・。何か、こう、いろいろグルグル回っていたような時期でした。
- やるべきことをやっていて結果も出している一方で、なんとなく周りの人の賛成を得られなかったり、ちょっと距離感を感じたりと。これまでにはあまり出てこなかった内容の話ですけれども、この時に初めて出てきた頃なのでしょうか。
- 20代には自分の方が年下だったので、周りの方にフォローしていただいていたのかもしれないです。しかし30代になって、自分が中堅になってきて立場が上がるにつれて、見られた部分なのでしょう。
- なるほど。そういう意味では、働く中での、ちょうどフェイズが変わってきた時期だったのでしょうね。自分だけでやっていればいいということではなくなってきたというか。
- ええ。それであまりにも、周りとの関係が良くないということで、開発の仕事からスタッフの仕事に配置転換されたということがありました。それがちょうど40歳の頃です。そのときにちょうどコーチングと出会ったのです。
- その配転されたというところをもう少し聞いてみたいのですが。配置転換というのは希望して異動したのではなく、人事異動で行かされたということですか。
- はい
- その時はどういう心境だったのですか。
- そうですね、本当に、唖然としたというか。なんだろう、左遷されたというのが、最初の正直な気持ちです。開発の仕事から外された、という。
- なるほど、外された、という感じ。それは結構な挫折感じゃないかなと思うのですが。
- そうですね。今までは、商品を作ったり、マーケティングをやってきたりしたので、ラインから外された、左遷されたというのがすごくありました。会社を辞めようかなと思ったぐらいでした。
- 聞いていて、結果を出している一方で、左遷ともいえるような人事を受けたら、「じゃあどうしたらいいのだ!」という風にはならなかったのかな、と思ったんですけれども。
- 今、思えば、上の人が使いにくかったと思いますね。
- 当時は、自分が使いづらいだろうと思ったことはあったのですか?
- そういう意識はなかったですよ。ただ周りの人との関係がうまく行っていないなというのは感じていました。
- それについて何とかしようというところから、コーチングに出会ったのですか?
- はい。そこでコーチングに出会いました。
コーチングとして生きる
コーチングとの出会い
- コーチングとの出会いについて聞かせてください。
- 社内でうまくいっていなかったので、もっと自分を磨こうと思って、ビジネススクールに週末、通っていました。その時に、ファイナンスを教えていた先生が、授業を進める時に、ファイナンスの知識を教えるだけじゃなくて、受講生に質問をたくさん投げかけ、色々なものを引き出すと関わりをされていたのです。その時、私は、自分ではこれが答えだと思っていたときに、質問を投げかけられたら、パッと視野が広がったりとか、グッと深堀りされたりという、今までに経験したことがなかった感覚がありました。それで、「これだ!」と思ったのです。
その先生が「自分はファイナンスを教えるのは、このクラスが最後で、次は、コーチングの先生になるのだ」と言われて、「えっ、それ、なになに?」って。 - 食いついたわけですね(笑)。
- はい。それでコーチングを学ぼうと思って。
- それがきっかけなのですね。その後、学びに行くわけですね。最初にコーアクティブ・コーチングを学ばれたときは、どう感じたのですか?
- 最初は、何の法則性もなく、訳がわからなくて。だから、トレーナーが話している内容やデモストレーションの会話を全部ノートにとって、「この時の質問の趣旨は何ですか」って。ログを取って分析してたんですよ。
- あはははは(笑)。そうなのですね! そういう受講生だったのですね(笑)
それでも、その後、コーチングの学びがずっと続いたわけですが、何がそうさせたのですか? - 応用コースの2つめのフルフィルメントという価値観にアクセスするコースを受けた時に、たまたま一緒にペアを組んだ女性が、初恋の女性と似ていて(笑)。1対1でコーチングしたのですが、質問をしただけで相手の女性がもう本当にキラキラと輝きだして、もう私はドキドキしてしまって・・・(笑)。
- あはは(笑)。
- 本当に、恋をしているような感覚になりました、その時に、自分が、ああだこうだ言わなくても、「ただ相手に関心を向け、好奇心を向けて、質問をするだけで人は輝く、これはなんて面白いんだ!」って思いました。そして、すぐに、私は、プロコーチの資格を取って、コーチになるんだ!と思いました。
- コーチングを学び始めてから、会社の仕事においてコミュニケーション上での変化はあったのでしょうか?
- 周りの話を聞かなかったり、空気を感じることができていなかった自分が、自分が話したことで空気が変わったな、何かおかしいなと感じるようにはなりました。それまでは、仕事の成果とか、進め方などばかりを意識していて、人の気持ちを全然感じとることができていなかった自分がいたのに、「今こういう雰囲気だな」ということに気づくようになりました。
- 今までアンテナが立っていなかったようなところに、アンテナが立つようになった。
コミュニケーションの中で意識の向け方に変化が出始めたわけですね。 - 相手の表情や空気感を感じるようになったというのは、ものすごい変化ですね。
- そこでコーチングを学び進めていくわけですね。
- はい。
NLPとの出会い
- NLPを学ぶに至った経緯を教えてください。
- 私が受けたかった、ある大きな研修プログラムがあったのですが、残念ながら選考で落ちてしまってショックを受けていました。その時に、コーチの友人からNLPというものがあり、それを学ぶとコーチングの幅が広がるということで学び始めました。NLPを学び始めてみると、左脳的に物事を分析する傾向のある自分なのに、五感で物事を感じ取っていくことが腑に落ちました。プラクティショナー、マスタープラクティショナーと資格を取りました。そして、さらに教える資格であるトレーナーにも、チャレンジしようと思いました。
- これは「教える」という、今西さんの好きでやりたかったことが含まれていることですね。
- はい。NLPのトレーナーになるためには、創始者であるアメリカのリチャードバンドラーのコースを受ける必要がありました。ただ、私の受講した年から、選考試験がありました。その選考試験に、今まで色々な試験で一度で受かったことがない私がなんと、一発で合格して(笑)。
- 珍しいですね(笑)。
- はい、珍しく、緊張もせずにうまくいって(笑)。それで行くことになりました。
- なるほど。このNLPをやることで、今西さんのどんな変化があったのですか?
- 選考試験をパスした後、アメリカに行ってバンドラー博士のコースを受けるために、3月に2週間会社を休まなければいけなかったのです。その頃、私はちょうど経営企画の仕事をしていて、3月というのは事業計画をまとめなければならない、最も忙しい時期でした。
- そうですよね。来期計画ですね。
- そのような時期に、「2週間休むなんて、いいのだろうか?」と自問自答したり、上司に休暇を取りたいと言ったら、「一番忙しい時期に休むな!」と言われるのではないかと。「どうしよう…、行きたい、行きたい!でも上司に言えない」って、休暇届を持って行っては引っ込めて、というのを繰り返して。
- 実際に手に持ちながらも(笑)。
- 「ちょっと相談あるのですが」と言って、上司がこちらを向くと「やばい!」と思って、「この書類なのですけど…」と差し替えてみたり、ということが数回ありました。
- 差し替えるぐらい!
- そして、今日言わないと申し込み期限に間に合わないという日のこと。お客様の接待が終わって、上司が上機嫌で酔っている時に、帰りのタクシーの中で話をして承諾をもらったのです。もうその時は、崖から飛び降りるような感じで言いました。翌日、休暇届を持っていった時、上司は冷静に、「お前が本当に成長のためにやろうと思っているのだから、いいよ」とハンコを押してくれたのです。
- あはははは(笑)。すごい勇気ですよね。ヘタしたら辞めなきゃいけない、そこまで考えたのですよね?きっと。
- はい。経営企画に配置転換になり、それまで、実績を積んで信頼を得てきたのに、それを失って異動になったらどうしようという、その恐怖がものすごくありました。
- へえ! でも見事に。
- はい。でも、やりたいという気持ちが強くて、自分に嘘はつけないと思ってました。
- そこでも、自分に正直である、誠実であるというところが表れていますね。
- そうですね。その時に、アメリカでバンドラー博士のコースを受けることで自分がすごく良くなるという確信があったので、それは上司に伝えました。
コーチングやNLPを通して起こった変化
- コーチングを学び始めたのは、コミュニケーションに問題があるといわれたのがきっかけだったということなのですが、何かコーチングやNLPを学ばれて、職場での関係、職場に関わらず人との関係も含めて、どんな変化があったと思いますか?
- そうですね。まずは、直属の部下との関係が非常に悪かったのですが、部下との関係が良くなりましたね。部下に「コーチングの宿題があるから協力してくれ」ということを伝えて、新幹線の中で面談のような形でコーチングをやりました。すると、その部下が「自分の本当にやりたいことや、大切にしている価値観」に気づいて、それ以降、部下が変わったということがありました。
- へえ!部下も変わったし、関係性も変わった。
- そうですね。すぐに劇的に変わったということではなかったのですが、何か、部下の行動や意識の変化があったなと思いました。
もうひとつは、部門の事業計画をつくる仕事で大きな変化がありました。それまではずっとトップダウンで作成していたのが、部長から「今回は、トップダウンではなく、現場の声を拾い上げるようなボトムアップ型の事業計画を作りたいので、君が司会進行役でやるように。コーチングを学んだからできるだろう」と。私がファシリテーターの役割を担い、部門の未来について考える対話の場を作り、みんなの意見を引き出しました。最初は、なかなかうまくいかず、苦労しましたが、しばらくして、現場から「自分たちはこうしたい」というコンセプトが上がってきたり、具体的な計画が出てきたりしました。トップダウンでなく、ボトムアップの要素も取り入れて中期事業計画を作ることに、コーチングで学んだ関わり方が、すごく活きました。 - 今の世の中ですと、もはやトップダウンじゃなくてボトムアップだという風潮が出てきていますけれども、じゃあボトムアップってどのようにあるのだ? ということがありますね。そのやり方がわからないという。見よう見まねでやってみても、なかなかうまくいかなくてトップダウンになってしまう。そういう意味でもその時の組織のニーズに合っていたものを持っていたということもあるのでしょうか。
- そうですね。部長は、事業が複雑化しているので自分一人では部門全体をマネジメントできないし、現場の若手メンバーを生かさないと、組織が疲弊してしまうという強い危機感を持っておられました。私は、新しいやり方を試行錯誤で進めていきました。当時は、ワールド・カフェや、対話の手法といったものが有名じゃなかった時代でした。最初はリーダークラスとの葛藤が起こり、叩かれたこともありました。しかし、それぞれの営業所や部署の雰囲気が変わったなとは感じていました。その後、若い人が仕事に対して誇りを持ったということを聞いて嬉しかったです。
- なるほど。
- 自分たちで作った中期計画だから自分たちはやる、という意識が育ったのです。
そして、私は、この実績で、役員に認められて昇格することができました。 - そうなんですか! じゃあ、そういう関わりが、上司の方からも評価された。
- はい。
- それは嬉しいですね。
- はい、人の力を引き出し、組織として質の高いものをアウトプットできたというところが評価されました。
- 以前とはまったく違う、別のアプローチですね。それはすごい変化ですね。
- そうですね。自分的にはやった感がなくて満足感もあまりなかったのですが(笑)。出来上がったものに対して、皆さんが「すごくいいものができた」ということで。
- そうか、やった感はない(笑)。自分でやったのとは違いますからね。手応えはないけど褒められるという。なるほど。そういう意味ではやり方が変わった、今西さんの持っている性格や雰囲気というものも変わっていたのではないかと感じるのですがいかがでしょうか。
- そうですね。変わったというか、もともと塾の講師をやっていて、人が言いたいことを言える雰囲気を作れるというキャラクターが全開になったと。片や、いい子で正論を言おうとする部分が薄まったということがあると思います。
- あと、聞いていると、楽しそうにやっていたんじゃないかなと感じたんです。小さい頃に、「はい、はい!」と手を挙げて前に出て行ったような。そしてちょっと笑いを取るというような。そういうのも、より出てきたんじゃないかなあと感じたんですけれども。
- そうですねえ。
- 子供の無邪気さとか。
- そうですね。そういうのもまたありますね。
- それまでロジカルにやってきたところから、そうじゃない自分を出すというのは、人の幅が広がったような感じがします。
- そうですね。あまり自分ではわからないですけれども、まあ、部長や役員は、その辺が変わったと言われましたね。
自分自身がコーチングを受けたことによる変化
- ご自身がコーチをつけてコーチングを受けることもされていたと思うのですが、その影響という部分もお伺いしてみたいと思います。
- 私の中でコーチングを受けて変わったというか、本当に「自分の人生の土台ができた」と思います。独立をする前に、自分の人生の目的や、大切にしたい価値観をあらためてしっかり言語化しようという意図で受けていたというのが、すごく大きいです。独立した今も拠り所となっていて、すごく大きいと感じています。
コーチングというと目標を達成するために行うと思われる人が多いのですが(私も以前はそうでした)、むしろその土台となる「何のために自分は生きているのか、何を本当に大事にしているのか」ということを探究するためのものだと思います。 - なるほど。目の前のことをどう解決するかということではなくて、そのためにも、そもそも何のためにそれをやっているのか、何のために働いているのか、何のために生きているのか、そこに立ち戻って考えたということが、目の前のことをクリアにしていく上で非常に有効だったと。
- はい。やはり、その土台がしっかりあったからこそ、独立してやっていくという、人生の新たな扉を開いて一歩を踏み出す安心感につながったと感じています。
- そういうときに、コーチングを受けることはお勧めなのですね。
- そうですね。
コーチングを受けて欲しい人
- 「こういう人にコーチングを受けて欲しい」という、今西さんの想いを聞いてみたいです。「私は、こういう人にコーチングをしたい」という思いも含めてなのですが。
- 企業、自治体、学校など、組織の中でまじめに働いていて、その上で自分のやりたいことをやっていくのは難しいかな、と感じている人です。いきなり独立して自分のやりたいことをやる、というわけにはいかないけれども、もう少し自分らしく生きたいと思っている人に受けて欲しいという想いがあります。
- そういうところ(組織の中)で頑張るために、自分らしさを発揮する、そうしたいと思っている人ですか?
- はい、その場を楽しめるようになって欲しい、今、そこにいることに意味を見出せるようになって欲しいですね。
- それは、今西さん自身がそういう道をたどってきたからですね。
- はい。そうです。
- そのようなクライアントさんに来て欲しいと。
- はい。そうです。
- 後は、今西さんをコーチにすると、すごく誠実に関わってくれるのだろうなと思います。とことんやってくれるのだろうと感じました。
- ありがとうございます。今、ある組織の代表をされているクライアントさんがおられるのですが、毎日、日報が来るので、それにコメントを返しているのです。
- 毎日、日報が来るのですか(笑)。何か上司と部下みたいですね。
- そうなんです(笑)。これは、ご本人がそのようにして欲しいいうことで、「コーチは見なくてもいいから、日報を送らせて欲しい、そうじゃないと私はさぼってしまうから」ということでした。そこで、私は、コメントを返しています。コーチングセッションは3週間に1回なのですが、日報は、毎日、何かコメントを書いて返しています。
- うわぁ、毎日見てコメントしているのですね。すごい!
- はい、メールで来るのですが一言は返します。
- それぐらい、コーチングの関係が一度始まると、とことんやるぐらいの気合があるとのこと、そこまでコミットしているのだということが伝わってきます。
- クライアントさん全員に毎日やっているわけではなくて、そういう約束をした方にはコメントしているのです。話し合いの上で協働関係を築くことができたからです。
- そういうクライアントさんが来てくれたら、うれしいですね。
- はい。自分らしく生きたい人というのは、自由になってというだけじゃなく、家族も大事だし、今の職場関係も大事だし、その中で自分らしくということです。
- ただ、自分のワガママを通して人に迷惑をかける、ということではなくて、今、与えられた中で自分を最大限にどう発揮するのかというところに意識がある人。そういうことですね。
- はい。